オイラがシンパパになるまで…其の七

オイラがシンパパになるまで

2月もまもなく終わろうとしている頃。
この数週間、オイラはこの人生で最も本気で行動した。
「死物狂い」とは正にこのことだというくらいに我が妻を救う可能性を探し求めていた。

ほんのわずかでも可能性があるなら…

前回の投稿で本格的な治療は転院先の病院で行うということを書いた。
実はぽかが一度脱走してきた時期に、なんとか生検手術から逃れるため、
そして他に治療方法があるかも知れないという希望的観測からセカンドピニオン的に脳腫瘍治療に特化した別の病院へ相談に行っていた。
結果としては現在入院している病院と同様の処置を行うのが一般的であるということだったが、そちらの病院は悪性脳腫瘍の年間治療数がかなり多く、また成功例も高く、脳神経内科・外科ともにかなり名の知れた大病院だ。

悪性脳腫瘍グレード4(グリオーマ、グリオブラストーマ、膠芽腫などと呼ばれる)の可能性が非常に高いと診断されてしまった以上、残念ながら残された時間は非常に短い。
偶然このブログを見つけて下さった方に希望的なことを伝えられないのが本当に悔しいし、
当然自分自身ではそんなこと納得が行くわけ無いのだが、治療が成功しほんの少しでも長く生きることが出来る可能性は無いものかと藁にも縋る思いでその病院へ相談した。

出会った医師に希望を見出す

悪性脳腫瘍について色々と調べているうちに、とある医師のブログに行き着いた。
偶然にも転院先の病院に勤務している医師で、これまでにかなりの数の治療を行ってきた方だ。またブログの内容から脳腫瘍に対する深い知識と医師としてのスタンス。そしてとても人間味のあるブログの内容に惹かれメール連絡をしてみることにした。
するとすぐに返信をいただくことが出来、「すぐにでもお話を聞きましょう」ということでアポを取ることが出来た。

数日後、病院で会ったその医師はとても穏やかな雰囲気の方で、オイラたち夫婦のビジネスについてや家族構成など脳腫瘍とはあまり関係ない話題から質問をしてきた。
一通り家庭の話を終えてから最後に生検の結果、おそらくグレード4の悪性脳腫瘍の可能性があるということを伝えた。

ぽかのMRI画像を見た医師は一言。

「残念ながら生検の結果そう診断されたのであれば、ほぼグリオーマである可能性が高いでしょう。そしてこの病気は本当に難しい病気です。1年生存率もかなり低いです。」

「私の担当している患者さんでも2年〜3年と元気に生きている方も多数いますが、5年以上生きている方はまだ見たことがありません」

やはりそうか…どこで調べても同じようなことが書いてあるが医師から直接言われるともう希望が全く見えない。

ただし、先述の通りこの医師はとても人間味の深い方だ。

「私は患者をいつまでも病人として生きていくようなことはさせません。奥様はこれから治療を行って、そして大きなハンディキャップを負うことにはなるが私生活に戻るんです。今まで通りお家のことを自分の力で行わなければならないし、あなたとの生活も子育ても頑張らなければいけない。まずは1年。そしてもう1年と生きていく。あなたとお子さんはそれを全力でサポートしてあげましょう。」
概ねこのようなことを言われた。

かなり家庭事情に首を突っ込んでくるタイプの先生だが、脳腫瘍の治療のことよりも退院後の生活について、つまり未来の話をしてくれる医師である。
病人として生きるのではなく、残りの人生をいかに充実させるかに重きを置いている。

そして、たれ吉(中学生)とぴょろ子(小学生)の卒業式・入学式についても触れ、

「3月から治療を始めて、息子さんの中学の卒業式には間に合わないかも知れないけれど…」

娘ちゃんの卒業式には出てあげなきゃ。
なんとか間に合う可能性はあります。

こんなに希望を見いだせる言葉があるだろうか!!

悪性脳腫瘍の治療は現在のところ放射線治療と抗がん剤の使用が一般的なのだそうだ。
たれ吉の卒業式は3月の中旬なので、放射線治療の効果がまだ表れない時期のため難しいのだが、月末のぴょろ子の卒業式にはある程度治療の効果が表れ、腫瘍が少し小さくなりはじめる頃。
治療の状況によっては車椅子でなんとか参加出来る可能性があるとの話だ。
もちろん二人の入学式の頃にはもっと効果が表れている可能性が高い。

それとなくぽかにも伝えるとすぐに感激のLINEが届いた。
今は彼女に生きる希望を、卒業式に出るという目的を与えなくては!!

そんなこともあり、この医師ならぽかを救ってくれるかも知れないという理由で転院をしたい旨を申し出た。
その日のうちにスケジュールを立てて頂き、現在入院している病院との連携もスムーズに行われ、すぐに転院が決まった。

転院、そして治療に向けて

それから数日後、いよいよ転院の日。
ほんの数日なのに、ぽかの調子は日に日に悪くなっている。
2月の中旬くらいまでは一人で歩くことも出来たし、目力もあり会話も出来たのだが今では左半身の自由がほとんど利かずに車椅子に座り、声にも覇気がなく悲しい表情ばかりしている。

転院当日だんだんと元気がなくなっていく妻

そして今回の転院に際しては「去る患者、誰も助けず」
当然かもしれない。
精神的に主治医に対する不安と不信感があるとはいえ、今の病院で治療を行えば良いものをこちらの都合で転院を希望したのだ。
一度脱走した上、ワガママな患者の転院の諸々の手続きに加え介護タクシーを用意していただいただけでもありがたいことだ。

しかしほとんど自由に動けない車椅子の妻を一人でタクシーに乗せるのはなかなか骨の折れるミッションであった。
どうにか介護タクシーに乗せ転院先の病院へ。
小柄な妻ではあるが、それでも大人の女性だ。それなりに体重はある。
タクシーに乗せる時も降ろす時も、本人はほとんど動くことが出来ず踏ん張ることも出来ないためオイラが支えながら【ミリ単位】でちょっとずつちょっとずつ移動させる。
タクシーから車椅子に乗せる際に下手をすればオイラも一緒にひっくり返ってしまい、夫婦仲良く入院という最悪のケースになる可能性があったが、そこはなんとか回避することが出来た。

病院に到着するとお腹が空いたのか、そしてすでにかなりボケ始めているぽかはボソボソと

「くろっくむっし(クロックムッシュ)食べたいぴ」

そう呟いていたが、それどころではない。
まずは放射線治療のための準備(マスクの形を取る)のため放射線科へ向かう。

豆知識だが、脳腫瘍の様な頭に直接放射線を当てる放射線治療は治療中に顔を動してはいけないという制約があるため患者の顔の形に合わせた専用のマスクを作る必要がある。
顔型を取ってからマスクが出来上がるのに1週間かかる。

これでようやく治療に進むことが出来る。

ようやく治療スタート

放射線治療のためのマスクが出来上がるまでの1週間。
転院したばかりのため、また色々な細かい検査を行うことになるぽか。
さらに食事が美味しくないだの、看護師さんが気に入らないだの、いつものようにワガママを炸裂させているが、この病院は午後から面会が出来るという大きなメリットがあった。
ほぼ毎日ぽかに会いに行き、一緒にお茶を飲みながら手を繋いで会話をする。
時折笑顔になったり冗談も交えながら会話も出来て、一緒に頑張ろうと励ます日々。
相変わらず「くろっくむっし食べたい。」と呟くぽかだが、そんなもの勝手に買ってきて食べさせるわけにも行かない。
ごめんよ、今思えばこの時食べさせてあげればよかったのにね。

治療を始める数日前にも担当の医師とミーティングを行った。

「奥さんあなたは今、目に力がほとんどないけれども、それはあなたという個性を形成している部分が脳の病気によって冒されているからです。これから治療をして、またいつものあなたに戻ってからこれから先の生活の話をしましょう。まずは治療を頑張りましょうね」

そんな話をしていたのがとても印象的だった。

そして3月4日、ついに放射線治療が始まる。
初めて脳外科を受診してから1ヶ月ちょっとの間に随分と深刻な状況になってしまったがようやく前に進むことが出来るという安心感が少し芽生えてきた。


ところが…それまで毎日やりとりを行ってきたLINEが連絡はおろか既読すら付かなくなってしまった。

その日は何時間待っても既読が付かない。
不安を抱えたまま翌日病院に行くと、そこには普通にぽかがいた。

だが、かなり腫瘍の進行が早いのか、瞬きや軽い笑み程度の反応しか出来なくなっているぽか。
手を握れば握り返してくれるくらい、右手にはまだ力が残っているが言語能力がかなり落ちてしまっている印象だ。

「また来るからね!」
そう言って出来る限り面会に通う日々。

放射線治療が始まってから5日目の夜。病院から着信があった。
土曜日だけど、こんな時間にどうしたんだろう??
電話に出ると、一瞬でただ事ではない緊迫感が伝わる看護師さんの冷静な声がした。

「◯◯樣のご主人様ですか?これから担当医師よりお話がありますのでお待ち下さい。」

この一言だけで身体が固まってしまった。
このあと医師からどんな話があるというのだろう。

保留音が止み、本日土曜の当直だという医師がこう言った。

奥様の呼吸が停止し瞳孔も開いています。

「ひとまず呼吸器を繋いで事なきを得ましたが、大変難しい状況です。」

はい、そうですか…わかりました…。

それしか言えず、すぐにたれ吉とぴょろ子を車に乗せて病院へ向かった。

だだぴ
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